天職の舞台裏

天職と思って日々仕事をしてますが、その舞台裏で色々考えていること、あるいは水面下でジタバタしてることを書いています。

法的素養?

開発プロセスが変更になったことに合わせて知財関係のプロセスを微修正しようと思ったら、その影響の範囲が案外大きくて、修正すべき手順書とか業務フローとか規程とかをたぐっていったらえらく大規模な話になってしまって少々うんざりしていました。

中には、変更前のプロセスの状態が反映されていなくてそのままになってしまっているところが発見されて、正しい状態にするにはいったいどこまで見直しをかけたら良いのか分からなくなってしまったり。うーん、スパゲッティ。

数人で頭を抱えつつ、適当なことをせずにちゃんと戻れるようにしておこう、全体と詳細のズームイン・アウトがきちんとできるようにしておこう、と格闘中です。

そこで思い出したのは、しばらく前に法クラスタで話題になっていた末弘厳太郎博士の『法学とは何か』。

ずっとKindleの中で眠っていて、週末に読み終わったのですが、その中に、「近代社会が法学的訓練を受けた人間を必要とする理由」という項があります。

法学部に入る学生がすべて法曹を目指しているわけではないのに、ではなぜ何を目指して入ってくるのか、さらに、多数の学生を収容するだけの法学部が大学に数多く設けられているのは何故なのか、この状況からは、

どうしても、今の世の中それ自身が全体として法学教育を受けた人間をたくさん必要とするようにできているのだと考えなければ、この訳はわからない

として、考察されています。現代国家が法治主義であることに加えて、民間の私企業も規模が大きくなるにつれて、法治機構によらなければ秩序正しい能率的運営ができない、としてウェーバーの官僚制を引用した説明がなされています。

確かに、会社もそれなりの規模になると、運営のためのルールが可視化されて存在しないと難しくなってくるのですが、ルール相互の関係性が運営の目的を果たす程度にきちんと整合が取れているように作成すること、それを維持管理することは、実は相当難しいようです。

このたび、ルールが記載されているはずの文章がそうなっていなかったり、矛盾があったり、循環していたり、という状況を見て、これは確かに、こういう機構を維持管理するために必要な素養というのがあるのかもしれない、と思ったりしたのでした。