天職の舞台裏

天職と思って日々仕事をしてますが、その舞台裏で色々考えていること、あるいは水面下でジタバタしてることを書いています。

ゲームのように楽しんで?

昔から、「ゲーム」に対して強い拒否感があります。嫌いなのか苦手なのかよく分からないけれど、好きではないし得意でもないことははっきりしている。

ゲーム感覚でやってみましょう!

と言われると、その瞬間に背を向けたくなる程度には拒否感が強い。

どうもね、「ゲーム」は誰にとっても楽しいもの、という前提があるような気がしていて、「そうじゃないだろ〜!!」と思う感じ。同調圧力を感じるような。

ゲーマーな家族

このブログになってからあまり書いていませんが、私の家族(夫と二人の息子たち)はみんながゲーマーです。

夫はアマチュアの碁打ちで、県代表になったことがあるレベル(県によって層の厚さは色々ですし、いつでも代表になれるほどの圧倒的な強さまではない)。息子たちが3歳くらいになったらそれはそれは嬉しそうに囲碁を教えていました。そして、夫や夫のまわりにいる人を観察した結果によると、囲碁を打つ人というのは押しなべてゲーム好きで、しかも強い。みんな囲碁が最強の(最高に面白い)ゲームだと言って憚らないけど、将棋もやるし(大抵みんな強い)、他のボードゲームとかカードゲームとか麻雀とかも好きで強い人が多い印象です。

そんな感じなので、夫は囲碁も息子たちに熱心に教えていたけど、一方でゲームもたくさん買い込んで家族でよくやっていました。将棋だけは「囲碁の方が絶対面白いから」と言って息子たちが誘っても 一緒にはやらないんだけど、でも強いから息子たちにとっては悔しい感じのようでした。

で、私はまあ夫に会う前からゲームは避けて通ってきたわけですが、息子1号に囲碁を教えるにあたって、「一緒に覚えたらいいじゃない」と言われて「それもそうか」となって教えてもらったことはあるんですよ。一応。でも全然続かなくて(面白くならなかった)、やっぱり向いてないわ〜となって、グイグイ上達していく息子たちを横目にそのままになった経緯があります。

なので、家族でゲームをやっていても、まあ大体私が一番弱くてつまらん〜となりがちでした。前のブログを読んでいる中で、そんな記事も書いているので引用します。

licensing.senri4000.com

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ここに書いていますが、真剣に遊ぶほど楽しいんだ、というゲーマーな方々の主張に対して、私が思うことは、

なんで遊ぶのに真剣にならなきゃいけないわけ〜?!

です。意味わからん。

遊びとは

なぜゲームが嫌いか(苦手か)をChatGPTと考えていたときに、ChatGPTから来た質問の中に、

  1. ゲームのどういうところに、疲れたりストレスを感じたりしますか?
  2. 「もしゲームが〇〇だったら、やってもいいかも」という条件があれば教えてください。(例えば、「のんびり一人でやるなら」「人と競争しないなら」など)

とありました。

1に対しては、「遊びのはずなのに真剣に考えないといけなかったり、思考を要求するところがストレス」、2に対しては、「ゲームをするくらいなら他のことをしていたい。全然全くやりたくない」でした。

すると、ChatGPTには、私にとっての「遊び」の定義がもっと別のところにあるということであり、ゲームが「苦手」や「嫌い」ではなく、「価値を感じない」「関心がない」、「ゲームは遊びでも娯楽でもない」ということではないか、と指摘されました。感情的に嫌いというより合理的に選択していないという感覚ではないか、とも。

なるほどね。リラックスや気分転換にならず、精神的な負荷になるものは遊びではない、と思っている。私の中の「遊び」の定義はリラックスできて気分転換になるもの、エネルギーを使うものじゃなく補充するもの。家族がいうように「真剣にやるほど面白い」ということに価値が見出せない。

上に引用した昔の記事にあるように、知財渉外に関する交渉ごとは自分の天職だと思っていたくらいで、好きで得意であったわけですが、同じことを遊びでやる気には到底なれない。それはステークが小さいからとかそういう話じゃないのよね、です。真剣にやるほどゲームを面白く楽しめる人というのは、ゲームそのもののルールの中での達成感や成長を楽しむことができる人の感覚で、それは私にはないわ〜。

ということで、ゲームは楽しいものだから、ゲームのように楽しみましょう!と無邪気に言われた時の萎える感じがどこから来ているのか大体わかりました。ゲームという形式そのものがしんどい、んですよね。

Chat GPTによれば、大人になるとこうした感覚を持っている人は増えてくるのだそうで、

「ごっこ遊び」や「仮想ルール」がしんどい
「競争や達成を目的にした遊び」に興味がない
「意味が見出せない努力」にストレスを感じる

こうしたタイプの人にとっては、「ゲームっぽさ」はむしろ敬遠の対象になる、とか。うんうん、そうなのよ。

ゲーム感覚の定義

さて、ここまで盛大な前置きなのですが(大汗)、100日チャレンジをやっている中で、主宰のjMatsuzakiさんはよく「ゲーム感覚で取り組みましょう」と発言されています。私は上記の理由で、その度に後ろ向きな気分になっていたのですが、ある時の発言で、「ゲーム感覚で取り組んでみましょう」、に続けて、

「やってもやらなくても良いことを、やる」と思えている時だけ、人はゲーム感覚を感じられる

と言われたことがありました。どの場面だったか完全に忘れてしまいましたが、上記のセリフだけ頭に残っています。

そして、これを聞いた私としては、その定義=やってもやらなくても良いことをやるのがゲーム なのであれば、意味がないとは思わないかな、やってもいいかな、と思えるな、私も、と思いました。

「やる必要はないけれど、やる」という「自由さ」や「遊び心」から生まれるのがゲーム感覚なのであれば、それは無意味ではない。むしろ、意味や成果から解放された贅沢な能動性ともいえるのかな、と。

これは絶対やらなきゃいけないものじゃない。でも、私は「面白い」と思ったから、やってみる

という主体性が前提になっている(ChatGPT曰く)。

まとめると、外側から強制的に与えられる「義務化されたゲーム性」は拒否したいけれど、「これは絶対やらなきゃいけないわけじゃないけど、面白そうだからやってみる」と自分で判断した時、それはもう私なりの「遊び」になり得るということなのかも。

ゲームと遊びについての思い込みや世界観をくつ返してくれたjさんに感謝を。そして、「面白そうだからやってみよう」を大切にこれからも過ごしていきたいな。