天職の舞台裏

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天職の舞台裏

天職と思って日々仕事をしてますが、その舞台裏で色々考えていること、あるいは水面下でジタバタしてることを書いています。

自分にとってブログとは?

書くこと

今週のWRM(311号)のQ(キュー)は、

あなたにとって、ブログ(ウェブ上で自分の文章をパブリッシングできるツール)とはどのような存在でしょうか。

でした。この問いを暫く考えて、ツイートしたのは以下です。

しかし、これではQの中の「ウェブ上で自分の文章をパブリッシングできるツール」という部分にあまり答えていませんね。なぜわざわざ公開するのか。自分の考えの整理や固定であれば、Evernoteにでも書いておけばいいじゃない?

読み手に向かって書く

私には、日常の中で考えたことや感じたことを整理して文章にしておきたい、という欲求があります。それをクローズドな中で試したこともあるのですが(典型的には日記)、ことごとく失敗しています。書くことに飽きたり、読み返さなくなったり、あるいは、読み返すのが辛くなって続かないのです。

なので、ブログを始める前の年代、例えば、カナダに居た頃のことは、記録が残っていなくて、もちろん記憶は風化しているため、さっぱり覚えておらず、色々な経験をして自分としても貴重な数年間だったにもかかわらず、今となってはその経験を語ることもほとんどできません。

しかし、今年になって過去の通信文の整理をしたところ、この時代の前半に出していたFaxの送信文が大量に出てきました。実家や友人に宛ててかなりマメに書いています。特に何があったと言うわけでもなく、日常のアレコレを綴って出しているので、読み返してみると、本人すっかり忘れていたことが蘇ってきます。後半はFaxから電子メールに移ったと思われ、整理したものの中にはなかったのですが、おそらく昔のメーラーからサルベージすれば同じように出てくると思います。

昔から手紙魔でもあって、大学時代や卒業してからの数年間の手紙のやりとりも山のようにあったのですが、手紙は相手に渡ってしまうので自分がなにを書いたのかは不明なままです。が、Faxは送信文が手元に残っており、電子メールも同様です。これは記録として使えそう(何に使うのだ?)。

こうした特定の読み手に向かって書いている文章も、今、公開の場でブログとして書いている文章も、大きくは変わりません。自分にとっては自明なコンテキストを省くことはせず、気持ちをそのままぶつけた赤裸々すぎて痛い文章ではなく、それなりに読んでもらいやすいものに仕上げています。

また、読み手を意識することで、書くこと自体や書き続けることへ動機付けが働くようです。読んでもらって反応があればまた書こうという気にもなります。あまり時間が空くと、どうしているのだろうと思われるかも、と思ったりします。結果として、記録が続くことになり、蓄積価値が上がります。

読み手としての自分

こうして読み手に向かって書いた文章は、自分だけのクローズドな場所で書いた文章よりも、自分にとっても読みやすく、記録としての価値の高いものになっています。

ブログの場合は公開してもいい情報に絞っていますから、詳細があまり分からないように(それなりに)加工もしてあり、隔靴掻痒なところもあると思いますが、自分で読み返す分には分かっている話なのであまり支障がありません。赤裸々に書きすぎて読み返すとゲッソリするよりずっとよいのです。

ブログの記事も10年以上溜まってくると、すっかり書いたことを忘れていることも多くあり、何かの拍子に読み返していて面白くなって自分のブログを読みふける、等ということもあります(笑)。

また、気になったことを検索したら検索結果のトップに自分のブログがヒットして、問題意識は変わっていないのか、というより、前に整理して書いたこと覚えていないのか??と思ってぐったりすることもあります(特に仕事系のネタでは多いです)。

情報の提供という視点は

ということで、特にこのブログに関しては、自分の考えを「公開できる形に」整理して固定しておくための場所であって、情報を提供することに主眼を置いておらず、正直なところ、読者の方への提供価値についてあまり考えていません。

私自身が、他の方の日常での考えや感じたことが整理されている文章を読むのが好きなので、きっと私のブログでのなんてことはない文章を読んで「へぇ~」と思ったり、自分の考えを発展させたりしてもらえることもあるんじゃないかな、と思って書いています。

逆に、「役に立つこんな情報を提供しています!」と直球で書かれているブログは熱量が高すぎてちょっと苦手だったりすることもありますので、そっと出して読んでもらえるくらいがちょうどいいかな、と。