天職の舞台裏

天職と思って日々仕事をしてますが、その舞台裏で色々考えていること、あるいは水面下でジタバタしてることを書いています。

研究の方法論

前置き

昨年度まで参加していた某団体での研究活動では、1年かけて10人前後の各社メンバーと共同で1つのテーマについて問題提起し、解決手法について仮説を立て、それなりに検証して提言につなげる、という形態で行なっていました。

これが、毎年繰り返されているにも関わらず、明示の方法論が確立していないというか、そのグループの運営を任された人に委ねられていて、初めて参加するメンバーにとっては見通しがよくなくて勝手が分からないということが当初から気になっており、年を重ねるにつれてそこをなんとかシステマティックに整理しようと努力しました(それなりに成果は上がったと思っています。引き継いでくれているといいなぁ)。

自分で運営していたときには、参考になる社会科学系の方法論を説いた参考書がないかとかなり探し回り、40年前に書かれた「創造の方法学」を見つけて読んだときには、時代はもちろん違うんだけど、彼我の違いとして描かれている、方法論が確立していてそれに沿って進められる米国流の研究と、暗黙知というかやっていくうちになんとなく分かるという流れの中で受け継がれている日本流の研究とが、今でもあまり変わらないのではないかしら?と思ったことでした。

そうこうしている間に、上野千鶴子氏の「情報生産者になる」が出版され、「そうそう、これだよ!」と思って各所に薦めたりしたのでした(が、あまり反応ははかばかしくなかった。研究の場で訴えたときもそうだったのですが、あまり必要性を痛感している向きは非常に少ない印象です)。

分野ごとにこうした方法論がしっかり整備されていれば、回り道しないで成果物に直行できることで研究のいわゆる生産性を上げるのにも役立つだろうし、何より多くの研究ではアウトプットの時期が決まっているため、後からそんなことを言われてももうやる時間がない!ということを防ぐことができると思うのでした。

そういう点で、ぱうぜ(横田明美)さんが出された「カフェぱうぜで法学を」は、法学部に進んだ学生の学び方・研究の方法論として素晴らしいものだと思います。すでに社会人になっている若者に読ませたところ、学生の頃に読みたかった、という声は多かったし、法学以外の学問でも共通して使えることがあるというコメントもあちこちで見かけました。

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息子1号の話

さて。なぜ今頃になってこんなことを書いているかというと、息子1号@情報工学科の4年生は、今年卒業研究をして論文を書く年にあたっておりまして、卒論の締め切りは2月中旬、中間発表が12月末、というスケジュールになっています。

3年生まではひたすら授業とその課題という感じで、「研究」というものはやったことがありませんで、3年の秋から配属されたゼミでついた先輩の下で、春から関係する論文を読んだりしながら大枠こんな方向で研究していく感じかなぁ〜と何ともアバウトな感じで進めてきていたようでした。側で見ていただけですが、随分緩いなぁという印象でしたが、研究スタイルって、分野ごとに随分違いますし、指導教官の方針によっても随分違うでしょうから、ふ〜ん、と聞き流しておりました。

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が、12月が迫ってきて、急に、中間発表のスライドの準備をしなくてはならない、そのプロットを提出する必要がある、となり、それと重なるように、論文の第一稿の提出の締め切りが設定されているのだと。そのあたりのスケジュール感は、本人はここへ来て急に指示されたような印象を持っていましたが、 実際のところ4月当初から指示されていたのかもしれず(ピンと来ていない時期だと記憶に残っていない可能性は大いにあります)。

そして、実際に去年の先輩の中間発表資料を見てみて、同じようにプロットを作ってみると、色々全然足らなくて、スカスカで間に合いそうにない。例えば、先行研究にしようとしていた研究の説明がうまくできない。というのも、この論文から持って来ればいいや、と思っていた程度で、具体的にどこを引用すればいい、とかまで考えていなかった。ぼんやりこんな程度、という印象を持っていたので、根拠となるデータが引っ張ってこれるものが探せていなかった。 先行研究から課題を出して、その解決として考えていた提案手法がストーリーとしてうまく噛み合っていない。それを仮説としておいた場合に検証するための実装がうまく行っておらず、このままではデータが取れなくて論文に至らないのでは。などなど色々。

まあ、こうしたことって、成果物に落とし込んでいくと初めて見えてくることってたくさんあるわけで、だから一度書いてみるって大事だったりするわけですが、問題は、時期がここまで押し迫ってからそんなこと言われてもやっている時間が圧倒的に足らないってことで、となると、できる時間の範囲内でお茶を濁すようなことになりがちです。そして、過去の同じ研究室の先輩の論文の構成を見ると、案の定というか、妙に前提の部分が長い説明になっていて肝心の研究の所が薄いものがあったりするようです。

本人は、もっと早い時期に、例えば、先行研究の論文を読んでいるときには、これがアウトプットではこう使われる可能性があるって教えてくれてれば、そのつもりでメモを作って読むようにしたのに!とか憤慨しておりました。まあ確かに初めてのことは言われなければわからないというか、やったことがある人が指導についていれば、言われるままにやっていればいいと思いがちということはあるよね。質問すれば色々教えてくれたとは思うけどね、スケジュールだって、自分で立ててみて、今やってることがどうつながっていくのか質問すればやったことがある人は答えることはできると思うから系統立ててでなくても教えてはくれたと思うけどね、とか思いつつ、まあ、教える側の責任といて、系統立てて示してくれてもいいとは思うなぁ。。。とか冒頭の経験を思い出しながら思ったのでした。

で、息子1号はこの先も継続して大学院に進むので同じ研究室に残ることが決定していますから、現在取り組んでいる卒業研究では時間の許す限りで仕上げるしかないわけですが、その先は同じ轍を踏まないように自分でちゃんと見通しを立てて研究する、そして、来年卒業研究を行う後輩には、ちゃんとこれがこうつながっていくとか、スケジュールはこう進むから今ここまでやらないと後で大変になる、とか、ちゃんと指導する、などと言っているのでした。

自分が指導されなくて残念だったところはちゃんと後輩に指導するようにする、と今からどうやればいいかとかつい考えてしまう、という息子1号を見ていて、「こいつ私と一緒だわ・・・」と密かに思ったことでした。世の中の大半の人は、そういう目にあっても、喉元を過ぎると「ああよかった」で終わって忘れてしまう傾向にあるように思います。水に流しちゃう国民性の表れでしょうか・・・。

隣の研究室の同級生に聞いてみるともっとみっちり指導が入っていることがわかったりして、そりゃもっと早く聞いて応用したほうがよかったんじゃない?とか思うことしきりですが、何しろ今更感がハンパないので、経験として活かすしかありませんねぇ、とか思うのでした。

とりあえず、本日の中間発表は「あまり無事ではなかった」が乗り切ったそうで、ゼミ生みんなではっちゃけていました。年末年始は、論文読む!だそうですが、まだそのモードにはなっていないようですね。

ちなみに、中間発表のスライド構成とかは助言を求められてかなりみっちり指導入れました。ははは。