キャリア第2期、特許事務所時代の後半(2005年4月~2008年2月)についての記事。これを書いたのは、2013年の8月です。多少の編集はしていますが、ほぼそのまま全文載せておきます。
事務所の移転
前半時代の事務所のオフィスは、初職でありクライアント会社であった某社の至近にあった。所長が独立した当時はほぼ全件出身会社の案件だったため、利便性を考えてそこに構えたということらしい。徐々に年数がたって、事務所経営の安定化の観点からクライアントを増やして割合を減らしていき、所員数も少しずつ増えるに従って手狭になった(なにしろとてもとても古い小さなビルだった)。
クライアントが増えてくると、特にその近隣に事務所を継続して置く必要も薄くなっており(大体オフィス街じゃないので余り物件がないし)、もう少し街に近くて遠方から通うにも便利なところで移転先を探した。
それなりの物件を見つけて引っ越したのが2005年の4月だった。毎年3月はクライアント期末で出願期限が集中して忙殺される一方、4月は反動で激減するから4月に実行したのだと記憶している。
副所長??
移転前後の所員数は10名程度だっただろうか。特許事務所としてはかなり小さい部類に入る。所長一人と事務の奥様という事務所の先生も年配の方を中心にまだ多いのだが、自分が書けるだけの仕事で食べていくのにとどまらないで、人を雇ってそれなりの受注をしようとおもうと、規模の拡大が必須になる。
ということで、移転は拡大のための第一歩。人の採用も見越して机やキャビネットも増強し、なんとなく空きスペースの多い中で執務開始した。そして、びっくりしたことに、新しい名刺が手元に来たら肩書きが「副所長 弁理士」になっていた(@_@)。イヤ全然そんな話は聞いてないんですけど?
この後、事務所で代理する出願の全件に選任代理人として名前を入れるようになった(おかげで退職時には辞任届を出さなくてはならない出願の件数が半端でなくて手間がかかった)。
人を増やす
事務所が拡大基調になるといくことで、中途採用の募集をかけ、面接をやり、採用した人の教育をし、ということが割合として増えていった。規模や知名度の関係もあってか、採用に応募してくる候補者は、(1)弁理士を目指している受験生で未経験者、または、(2)弁理士資格をもっているけど明細書はほとんど書いたことがない、という方がほとんどだった。また、私がいたせいでか、女性の弁理士にいっとき妙に注目されて女性採用が続いた。
事務所としての品質管理
事務所としてそれなりの人数の書き手を抱えるようになると、クライアントは個人の書き手ではなくて事務所に依頼をしてきているので、明細書の品質を揃える必要が出てくる。それができないとクライアントにおける事務所の評価は落ちるし、クライアントが書き手を指名してくることに繋がったりして事務所側の受注調整に不便をきたすことになったりもする。
特許の出願代理を専門とする弁理士の3本柱は、法律知識、国語力、技術力である。未経験者を採用した場合、これらの3本のうち2本があって後の1本を育てていくケースが多い。というか、1本だけだとかなり苦労するので2本はそろっている候補者を採用するのが基本となる。
すなわち、技術系バックグラウンドで弁理士資格があれば後は書く訓練をひたすら積んでいく形になる。技術系ではないけれども弁理士として特許でやっていきたいとすれば、夜間の大学等に通って技術知識を補強するのが近道だろう。
未経験の受験生はこの点ちょっと辛いことが多くて、しばらく書くのを指導してめきめき上がってこないとやっぱり向いてないかも、と断念するケースも少なくない。
間接業務の増加
という中で、指導をし、品質均一のためのチェックシステムを考えて導入し、一方で案件数は増えているのでシステム管理を行い、情報共有のためのミーティングやあれやこれやを実施して、となると、売上げに直結しない間接業務が増えていく。
どこの特許事務所でも、小さいうちは所長・副所長くらいがこれをやりつつ自分の売上げは落とさないということでしのいでいるのだが、いかんせん私はそこまで明細書書きとしての力量が突出していなくて(これは一にも二にも技術力が低いことによる。真剣に職業選択を誤ったとよく思ったものである)、間接業務が増えると売上げが落ちる、という関係にあったのがとても痛かった。
志向と現実のアンマッチ
業務の内容としては、中間処理や海外出願の案件が増えていく傾向にあり、そこから国内の出願へフィードバックがかかって経験の蓄積としてはよい感じになっては来ていた。一方で、契約相談とかの受注もぼちぼちあったり、ライセンス研究会という自主的な勉強会を大阪でやっていたりして、いずれはもう少しここをやっていきたいという思いはずっと持っていた。
このような自身の志向と事務所の行く末とのマッチングがよく見えなくなっていたり、技術力が低いことから来る特許弁理士としての自分に限界を感じたり、色々迷いの多かった時期でもあった。