天職の舞台裏

天職と思って日々仕事をしてますが、その舞台裏で色々考えていること、あるいは水面下でジタバタしてることを書いています。

ハレとケ?

明日が毎年恒例の家族新年会なのですが、毎年のように開催場所である拠点1自宅の片付け&掃除が終わっておらず、昨日今日と年始大掃除のような様相になっています。

掃除すること自体がすごい嫌いってわけではないんですが、ここで終わりっていうのが見えにくいのと自分の技量が低すぎて達成感が得られないのが前向きになれない理由かな〜。何しろ疲れますし。

掃除をしながらつらつら思い返していたのですが、子どもの頃の「お正月」って特別感がいっぱいで、その「正しいあり方」もきっちり決まっていて、そのための準備が凄かったな、と思います。

お正月を迎えるためには、しっかり1年の汚れを落とさなくてはならないので、大掃除に励む。3が日は普段の料理をしないので、その間問題なく食べられるようにおせち料理を用意する。おせち料理は縁起物なので、作るべきものは決まっている。元旦はお雑煮、2日はぜんざい。ひたすらお餅を食べて過ごす松の内。違うものが食べたいよ〜と言っても、年末についた餅がたくさんあるので、ひたすら餅ばかり食べさせられた気がする。寒い倉庫においていたけど最後の方は結構カビていたような。。(冷凍するという発想がなかったのか、当時は冷凍庫が大きくなかったのか??)

お正月って、神様を迎える、祈る、豊穣を期待するための行事なんですよね。元々。だからそうした儀式が色々ある。一方で、庶民ってそういう特別な行事でもなければご馳走って食べられないから、それを楽しみに過ごす、ということでもあったのだろうと思います。実際子どもの頃って貧乏だったんで、これが欲しいとか新しいものにしたい、とかあっても「お正月まで我慢しなさい」ってよく言われました。

長じるに従って、そうした儀式色が薄まってきて、自分の好きなように過ごすお正月、単純に長期休暇の1つになっていきます。

双方の実家に帰省していた頃は「実家で過ごすお正月」で、お雑煮を食べておせちをつまみながら昼間からTVをみながら酒を飲む、と言う感じでいかにもそれっぽかったように思いますが、あれ辛かったな〜。TV見たくないし、もっと自分のことがやりたい(本を読むとか、何か作業するとか)んだけど勝手に一人で行動してお正月の団欒を崩してはいけない雰囲気がありましたね。

そういう点では、特別な日よりもその準備の方が手を動かしていて充実感あって好きだったな、と思います。実家で団欒はともかく、もっと儀式めいてくると、特別な行事=ハレって、祈りなり何かを込めているわけなので、手順とか用意するものとか何かにつけて失敗が許されないじゃないですか。あれが苦手。緊張するし、失敗して怒られたり、用意が足りてないって怒られたりして心地が良くない。特別な何かよりも、普段から緊張しないで幸せに快適に過ごしたいよ〜と。

ただの宴会のはずなのに、正月というだけで、なんでこんなに掃除して片付けて見栄えを良くしておくことが必要なのか?2ヶ月前から段取り考えて準備してるのってなぜなんだろうな〜(でもなかなか着手ができないから直前になってひたすら掃除している)、とか思うのでした。「正月らしくない」家の状態になっていると、あれこれ指摘されるのがかなわない、だけなのかもしれませんが。

明日の準備がちっともひと段落しない中、気分転換にふらふら考えていたことを書いてみました。